七宝焼アーティスト 斉藤芳子 || 七宝焼アトリエCOCO

旅行記 Travel notes旅行記 Travel notes

南米七宝展の旅

2008年春

七宝工芸作家 斉藤芳子

■さあ出発
 2008年春はちょうどブラジル移民が始まって100年となる。その一環としての、100年記念七宝作家展のために、日本からは7名の出品者がサンパウロへと旅立った。16日間の旅である。飛行機の中はテレビに映画に音楽と自分の好きなものを勝手にチョイスして目の前で見られるので楽しいし、4時間ごとに食事は運ばれてくるので何とも快適なのだけれど、今回は同行の高知の作家、島田さんが素晴らしい知恵を教えてくれた。それが1本のヒモである。着物で利用するような、柔らかめのヒモを足元のガイド本が入っているポケットにリング状にしてひっかけるだけ。これでヒモの上に足を乗せてみると、とても楽なので感心してしまった。何と良いアイデアなのだろう。これで足の疲れが半減すること間違いなし! ぜひお試しあれ。
 サンパウロ空港には今回のステイ先である岩井さんの奥さま(七宝焼き)が車をチャーターして迎えてくれた。サンパウロに着いて始めに目に入ったのが木々に咲く真っ赤なパイネーラの花、もうすでに秋なのだが、日中は夏のように気温が上がる。飛行場から1時間ほどのコチアに向かう。ここは日本人が多いところで農業や養鶏などが盛んなところである。コチアに行く道すがら、川の水があちこち真っ白になっているのが気になった。不思議な風景なので聞いてみると、洗剤のアワなのだそうだ。水が濁っていて魚も住めない川になっている。どこの国でも環境問題は深刻である。
 ご厚意に甘え全員が岩井さんのお宅にお世話になる。岩井さんはブラジルの代表的な七宝作家だ。ホテルのような大きな家にメイドさん付き。いくつ部屋数があるのかわからないくらい。トイレや風呂もあちこちにあり、中央には40畳ほどのリビングがある。スラリとした若いメイドさんは大勢の客を一度に迎えて、ベッドメイク、洗濯、トイレ掃除、アイロンがけ。コーヒーの用意その他どんなにか大変だったことだろう。ちなみにブラジルのトイレは紙を流すことはできないので、近くにおいてあるクズかごにすべて入れなくてはいけない。日本での習慣が抜けなくて頭の中でよく考えながら用足しをしないと、うっかり流してしまいそうになる。
 私たちは大量に日本の食材を持って行ったが、後日東洋人街には何でもあることを知らされる。ただし日本よりずっと高いし、少し味が違ったりもするようだ。やはり日本から持っていったお蕎麦や漬物はとても美味しかった。日本食を食べると、また元気が出るし、胃の調子も良くなる。
 ここで少しブラジルの紹介をしよう。現在ブラジルは人口約1億8千万人。うち150万人が日系人だ。日本にはブラジルからおよそ30万人が来ている。ブラジルの治安は都会は良くない。平均寿命は67才と、とても短い。
 ちなみに本や服などはとても高い。ガソリンはサトウキビから作ったエタノールが2割ほど混ざられているのだそうだ。サトウキビ、トウモロコシ、油ヤシなど、世界には食糧難の多いというのに・・・。

■いつまでも終わらないテレホンカード
 ブラジルから日本へかける電話料金の安さには驚かされる。海外から電話をいただくと長電話をしては悪いような気がして、早く話を済ませるよう心掛けていたのだが、ブラジルでは10レアール(約700円)の外国用テレホンカードを使えば、日本へ電話しても用件のみなら10回かけても終わらない。日本にはこんなシステムはないので、ブラジルから日本に来ている方たちはとても不便に感じていると思う。
 今回私が主に訪れたサンパウロは超近代都市だった。日本人が頭にイメージするブラジルとはかなり違っていると思う。高層ビルが立ち並び、朝夕はすごいラッシュだ。鉄道や地下鉄が少ないせいもあるが、ブラジルの主要産業がこのあたりに集中していることも関係している。
 サンパウロの町を走っていると信号ストップの所でたくさんの物売りが寄って来る。ガムやアイスクリームetc…。広い通りのほとんどすき間のない車列のうねりの中に入って命がけの仕事ぶりに頭の下がる思い。「明日も無事でいてくださいよ」と祈るばかり・・・。
 100年前から日本から出発した移民船は1000人もの人を乗せ45日間かけてブラジルに行き、初期の移住者のほとんどは集団で生活していた。結婚も日本人以外ですることもなく、他人種との結婚は偏見から日本人集団からは差別を受け仲間はずれにされたそうである。現在サンパウロの日系人は35万人ほどだが、今はとても裕福な暮らしをしている日系人も多いとのこと。

・サンパウロで京都外語大の先生にお会いした。彼のお母さんは82才、ブラジルに住んでいる。一人息子の彼は学校の休みのたびにブラジルに帰る。日本に母親を連れていかない理由は日本ではお金がかかり過ぎるからだそうで、今、母親にはメイドさんが24時間付き添って面倒を見てくれている。給料は1ヶ月4万円。日本で同じことをしたら、いくらかかるかわからない。とても自分は払いきれないだろうということだった。サンパウロの郊外を車で走っていると道路から少し入った所の土の上に半円形のボールのようなものがあちこちにある。これは全部アリの巣で、手入れしていない酸性の強くなった畑のアリは好んで巣を作るのだそうだ。土地のpHを維持することはとても大切なのだと思わされた。

・ブラジルではタロイモやマンジョンガーのような主食になるイモ類が多く作られている。昔はインデアンが栽培していたのだそう。粉を買ってはみたものの作り方がわからない。サンパウロのリベルダージという東洋人街を歩いてみると日本の食品はほとんど主要なものは置いてある。

・街路樹に紫の花が咲いているがコアレジョリーナという花だそうだ。美しい。こんな道を歩いていると、とても幸せな気分になる。

■ブラジルにて
 サンパウロでは、色々な国から移民が来ているための町では各国の大衆料理が味わえる。その中の1件アラブ料理店に行った。水代わりH2O2というサイダーのようなものをまず頼んだ。一見パンのような巨大餃子やロシアのピロシキに似たもの、それに黒い丸いボールのような揚げ物と色々食べてみると意外に皆食べやすくて、これにアラブソース、パプリカとアンチョビとマヨネーズと油炒めした玉ねぎとニンニクを入れ、それに唐辛子を少し入れてミキサーにかけたものをつけて食べるとさらにまた美味しい。初めての味。ファストフードのように気軽に食べられるアラブの店はとても賑わっている。日本でこんな店があったらいいのになァと思ってしまった。
 岩井さんの家の近くにイタリア人と結婚しているブラジル生まれの日本人、カコさんがいる。彼女が町内の朝市に行ってヒッピーから色々なアクセサリーを山ほど買って来てくれた。色々な実を繋いで出来ているもので、そのうち真っ赤な大きな玉をヤギの目、小粒の玉をハトの目というそうで、ココナッツの実やヤシにもこんなに色々な種類があるものかと驚かされた。繋ぎの黒くて特別大きなパーツはアマゾンの木で作られたものだそうだ。この国でユーモアはとても大切な要素だとか。素晴らしく明るくてユーモアがあるカコさんはどうやらブラジル人の典型らしい。とても魅力のある女性だ。
 ブラジルでは日常に食べる「ロミオとジュリエット」という名の美味しくて、ちょっとクセになる甘い食べ物を紹介しようと思う。
 これは日本に2キロ程度持ち帰ったが、日本人にもすこぶる評判が良かった。グァバの実をとことん煮詰めて固くなったものを小さくスライスしてクリームチーズや水牛のチーズ(ムサレラ・デ・バファロー)などと合わせて食べるのだが、この取り合わせが何とも美味である。固形のグァバとチーズがとても良く合うのでロミオとジュリエットと名前をつけたのかも知れない。これが食事に度々ついてくる。いつか群馬の大泉に行ったら、ブラジルから来ている人のための南米食品店でロミオとジュリエットを探してみようと思う。また、ブラジル特産のサトウキビの蒸留酒カシャッサにグラビオーラを入れミキサーで砕き、それを濾して砂糖を入れ飲むお酒は、とても美味しいけれど、日本ではとてもお目にかかれないのが残念!
 ブラジルではあちこちで花が色鮮やかに咲き乱れているが、中でもチナという花がどこでも見かける。どこでも生えるというのを中国人はどもの国に住んでも逞しく生きてゆく姿に言葉がけをしてチャイナ→チナになったのだと教えてもらった。
 私たちの作品展のお祝いとしてサンパウロのライオンズクラブから思いがけないプレゼントをいただく。7人全員にBIGなもの、果物カゴで中にはマンゴスチン、シリングエラ、アセロラ、スターフルーツ、マンゴー、グァバ、巨大松の実などのギッシリ詰まったものを一人一人にいただく。
 ここで有名なセナの話しをしよう。サンパウロではアイルトンセナが亡くなって14年目。1994年に事故死したレーサー。ブラジルの星の葬儀は3日間ブラジル全てが喪に服し、町々は死んだような静けさでテレビはすべてセナの安置までの実況中継ばかりだったそうだ。私たちがサンパウロを走っている時も「セナのトンネル」というのを通り抜けた。あちこちに名が残りセナはブラジルの人々の心から消えることはない。
 ブラジルは11月12月1月頃が夏で、日本の真冬の時期にあたる。ちょうど地球の日本からは反対側にあり、時間は12時間のズレがある。アトランタで一度飛行機を乗り換え、サンパウロに着くまでは日本から25時間後。すると、ブラジルでは昼と夜がすべて反対になり最初の数日間は睡眠薬のお世話になった。夜7時にサンパウロでNHKの朝番組「おはようニッポン」を見ることになる。とてもおかしな気分だ。
 せっかく日本から一番遠い国に来たのでアマゾンへ行ったりと、合計8回ほど飛行機に乗り降りしたが、サンパウロからベノスアイレスまではちょっと隣の国へという移動でも、日本に置き換えるとシンガポールに行くほどの距離に相当する。とにかく国が広大で何事もスケールが大きい。「ちょっと夕食会を」と招いていただき訪ねてみるとなんと60km先のレストランだったりする。車がなければ身動きできない国だ。元気なうちはいいだろうけれど、年をとって車が乗れなくなってしまったら、いったいどうやって生活していくのだろうと考えさせられる。サンパウロでは政治と自動車企業が結びついているとかで鉄道がほとんどない。旅行者の個人的な行動はまったく不自由だ。毎日の車のラッシュは今大きな問題になっている。各国のガソリン高騰でアルコール燃料が注目されているがブラジルでは原料のサトウキビやトウモロコシの生産がますます盛んになり発展の追い風になることだろう。

■旅を終えて
 帰りの飛行機は高度1万メートル-50℃の世界。窓にはきれいな氷の結晶が張り付いている。サンパウロからアトランタまで9時間。アトランタからは、さらに13時間の旅。日本では春真っ盛りだった。一日で秋から春になる。今回の旅は自分がブラジルに対していかに誤った予備知識を持っていたのかということをつくづく知らされた旅だった。旅先で見聞きしたものをまた帰ってからその背景などを調べ、いくらか遠い国とはいえあまりの無知であった自分に反省しきりである。ブラジル移民100年記念展に参加し、これほどの深い意味と歴史に触れられたことを心から感謝しなければならない。また、ブラジル人の気質やあのスケールの大きな大自然や文化に強く惹かれてしまった。

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